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第11回 情報経済論のフレーム

 これまで、10回にわたって、情報経済論の第一論点を述べてきました。あとは、レモン市場になると予想される中古車市場が、少なくとも日本の場合は、そうなっていないことの理由や要因を述べるだけとなりました。これは、また、後程、述べます。

 ここで、整理の意味も込めて、情報経済論的フレームの経済学における立ち位置を考えてみます。

 経済学における玉座は、ミクロ経済学であるということはすでに述べました。様々な経済理論を包摂しながら、新古典派経済学として、経済学の主流をなしてきました。このミクロ経済学と情報経済学、および、いま一番勢いのある行動経済学の関係をたった2つのメルクマールで分岐してみたいと思います。

 ミクロ経済学の基礎的前提の第一は、「情報の完全性」でした。これに対して、情報経済論は、情報の非完全性、不十分性を前提とします。情報が不完全か、非対称性がある場合を考えたのです。では、行動経済学は、どうでしょうか。行動経済学も、情報の不完全な場合や非対称な場合を原則として考えます。しかし、情報が十分にあったとしても、人間は、人間らしい判断や評価をするとみます。すなわち、大量の情報が入手できたり、入手できる場合でも、十分に情報を吟味しないのです。なぜか。まさに、「人間だもの」です。相田みつを先生が説かれる人間らしさです。筆者は、相田先生ファンです。「人間だものの経済学」を推し進めたいと思っているくらいです。この人間らしさを、行動経済学では縷々説くのですが、その第一は、人間の判断が、「ヒューリスティックス」であるというものです。これはまた、カテゴリーを新たに立てて詳述します。

 たとえば、保険の契約時、最近では、保険の販売員の方が十分に保険内容を説明することが義務付けられています。大変に丁寧な説明をかなりの時間を割いて行います。ありがたいとともに、貴重な時間を奪われたような気になります。大変に複雑な約款内容は、逆にいうと、1時間程度ではわかりようもありません。筆者の理解力のなさもありますが。この時間があれば、コラムのひとつも書けるのにとつい思ってしまいます。

ようは、いくら情報が与えられても、あまり考慮しない、人の話はあまり聞かない、というのが人間というものです。ひとことでいうと、人間の怠惰さに起因します。なんだか面倒くさいからです。面倒なことを排除して、直感で理解しようとするのです。一番あやしい判断様式ですが、そこそこに役に立つのがヤバいところです。

 第二は、「合理人」という仮説です。ミクロ経済学は、合理人仮説にたっています。企業家(供給者)は、予算の制約下で、利潤の最大化のみを図る存在とみます。消費者(需要者)は、家計制約の下、効用の最大化を目指す存在と措定します。情報経済論は、原則、この前提を容認して、人間をそろばん勘定をはじく存在とみます。これに対して、行動経済学は、合理性はないとはいいませんが、所詮は、限定的とみます。確かに、消費者が、一個ずつの商品の購入に対して、徹底的に合理的判断しているというのは無理があります。いろいろな感情や思いを持って適当に判断しているのが現状でしょう。

 ただ面白いのは、スーパーで日々の生活必需財(食品や日用雑貨など)を買うときには、チラシなどをみて、1円でも安いものを探すのに、高級自動車や海外旅行などは大胆に購入するのです。総合的にみると、つじつまが合っていなく、いい加減であるとしかいえません。ここでも、やはり、人間だものの経済が、発揮されているのです。

 筆者は、ミクロ経済学の理想主義的な論理的思考が大変好きであるとともに、行動経済学の人間臭のする経済行動分析にも大変に惹かれます。結局、関西弁でいうと、どっちやねんということですが、どっちもということでもいいんちゃうかと思います。

 理論と現実は、相補的な関係であり、両者を総合することが、「総合情報社会学」には求められていると思うのです。この総合情報社会学とは、なんやねんという突っ込みがはいりそうですが。

 筆者は、四半世紀前に、日本の多くの大学で社会情報学が流行っていたときに、それに関係する研究者がそのようなことをがやがやと話をしていたことを思い出しています。

 今回は、ミクロ経済学と情報経済論と行動経済学のもっとも単純な分け方を考えてみました。

 次回からは、第二論点の情報を持つ側の契約後の行動変容を論じていきます。

 

 

 

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