第56回 ミクロ経済学の射程
ここでは、「ミクロ経済学の射程」を考えてみたいと思います。
ミクロ経済学は、およそ250年前あたりに生まれ、その永い学史のなかで、いろいろな理論を取り込みながら、成長・発展していきました。
いまでは、新古典派総合学派と呼ばれるようにもなっています。この意味は、いろいろな学説や学派が総合かつ統合化されていることを表していると考えられます。
ということは、今後も、いろいろな学説や理論を含みこみながら、発展や統合があることを示唆しています。
ここでは、図表のように、古典的なミクロ経済学に、情報経済学(論)と、行動経済学を包摂したものが、この21世紀初頭のミクロ経済学の射程であるという試論を展開したいと思います。
経済現象や経済領域による分類が一般的ですが(普通は応用経済学と呼ばれています) 、ここでは、2つのキー概念による視点から、ミクロ経済学の発展の可能性をみてみます。
標準的で古典的なミクロ経済学は、経済主体を合理人とみていました。すなわち、消費者においては、「家計の制約下で効用を最大化するという主体」という仮説をとります。企業(家)は、「予算制約下で利潤を最大化する主体」とみます。と同時に、図表のように、その意思決定のために、「情報は十分にある」という仮定を採用します。この2つの強い前提によって、様々な合理的な意思決定がおこなえるのであり、その意思決定の束(理論の集合や体系)が、ミクロ経済学であるとみたのです。
これに対して、人間や組織において、情報が十分にある(完全にある)というのは、現実的には非常識(フィクション)です。人間の時空間からの制約を考えるだけでも、情報が不十分であることが分かります。そこで、情報が不十分、すなわち、「情報の不確実性」や「情報の非対称性」を前提した理論が20世紀後半に発展しました。それが、「情報経済学」(情報経済論)です。この理論は、完結した体系性や独自性をもつと考える場合は、学といえますが、ほかの理論の補完や修正であると考えれば、論であるといえます。いまの標準的なミクロ経済学のテキストの中には、「情報の不確実性」が章として入っているので、論という方がふさわしいように思われます。この考え方を今一度まとめますと、人間を合理人とみるとともに、情報は不十分にしか与えられていないとみます。いいかえると、不十分な情報下での合理的意思決定問題を解いているといえます。
さらに、21世紀にはいり、行動経済学が、ノーベル経済学賞を受賞しています。この理論は、図表を使うと、情報が不十分な状況下での非合理な意思決定を扱っているといえます。人間存在における合理性を否定しているというより、合理性もありながらも、非合理な意思決定も頻繁におこなう存在とみるのです。生の人間の経済行為や経済行動をつぶさに観察すると、非合理的な意思決定に基づいていることが分かります。しかも、情報を得られるような場面でも、直感や感情に左右されて行動しているのです。これもごく冷静にみると、人は、理性と感情と意志をもっていますから当然といえば当然です。この行動経済学も大いに知見が集積し、発展が進みつつあります。最近のミクロ経済学のテキストのなかにはこの行動経済学を章として取り入れているものも出始めています。
よくいわれるように、最初は、特殊な現象や状況を扱っているように見えたときには、標準化・一般化はされませんが、多くの人々に認知・評価されるようになると、全体の一部として取り込まれていきます。まさに、情報経済論がそうでした。今後は、行動経済学もミクロ経済学の修正・補完の理論として取り込まれていくでしょう。
いまのミクロ経済学の射程は、ここまできているといえるでしょう。