第18回 ルーティンワークとICT投資
今回は、双対原理の最後として、「ルーティンワークの多さとICT投資」の関係を考えます。
まず、ルーティンワークとは、一般には、「決まり切った日常の仕事、日常業務」(デジタル大辞泉)のことです。ほかには、「手順や手続きが決まりきった作業」(Weblio辞典)という定義もありますが、どれもそう大きくは異なりません。
『令和元年度版情報通信白書』(総務省)の第二章第二節では、このルーティンワークの相対的な多さとICT活用度との関係を一部とりあげています。
今回の図表では、横軸は、ICTの活用度ではなく、ICT投資の大きさをとっています。これは厳密にいえば異なるのでしょうが、広義では、同じことを言っていると考えます。
ここでも、ルーティンワークとICT投資は、日本と米国では双対関係となっています。
この双対関係をこれまで4回にわたって日本と米国とでみてきました。やはりベンチマークするのは、ICT投資がNo.1 の国が望ましいと考えたからです。今回のルーティンワークの少なさとICT活用度の値が、米国に近似しているのは、スウェーデンやデンマークなどの北欧の国々です。これからみると、米国はGDPで最大の国であるからという理由ではないことが分かります。むしろ小国である北欧諸国と似ているのです。ただし、北欧諸国は教育水準が高く、ICT教育も充実しており、かつ一人当たりの生産性が高いことは知られています。
それに対して、日本はルーティンワークが、なぜ相対的に多く残ったのでしょうか。
一つの仮説は、ルーティンワークは一般的にはICTまたはAIによって、代替可能であると考えられているのですが、日本(企業)は、雇用を守るために、手順が決まっている作業の自動化に踏み切らなかったというものです。または、この作業には非正規労働者を多く採用したという見方もあります。
この議論は、AIが労働者から仕事を奪うという見方とも大いに重なります。
筆者の見解を述べます。ただし、世界のどの研究者も実はこの労働とICTまたはAIとの関係を完全に解いていません。ですから、筆者の見解もあくまでも仮説のひとつです。
まず、北欧諸国および米国は、ほかの国々よりも、ルーティンワークが相対的に少ないことは事実でしょう。これは裏を返すと、非定型業務または創造的業務または高付加価値業務に多くの労働者が就いていると考えられます。その場合、ルーティン業務は、他の国に移転しているのかもしれません。やはり、ICT資本で代替させているのかもしれません。またはその両方かもしれません。
それに対して日本は、ICT資本によって代替させていないか、国際分業に頼っていないといえます。
ルーティン業務が本当に機械化(ICT化)できるのであれば、やはりそうすべきでしょう。そのほうが、生産性は向上すると考えられます。ここでAIによる労働代替の議論でもそうですが、ルーティン業務(仕事の一部)と労働者がおこなう労働全体は異なると筆者はみています。すなわち、日本の労働者はルーティン業務もこなしますが、あらゆる業務もこなしているともいえるからです。ひとりひとりがいわばジェネラリストとして働いているのではないかという見方です。他の言葉で言い換えれば、「多能労働」といえます。ただし、労働生産性は日本は高くないのです。とくに、時間あたりでみた労働生産性が低いのです。
それに対して、たしかに、北欧諸国および米国は、日本よりも一人当たりの労働生産性は高いのです。
これで一見落着なように思えます。ようは、ICT投資を増やして労働生産性を高めればいいのであると。または、グローバル経営で、ルーティンワークは国際分業化して解決すると。
ところが、次回みるように、「ソローパラドクス」がまた再来したとみられているのです。
ICT投資を増やしたにもかかわらず、GDPが成長していないのです。
日本のように相対的にICT投資が低い国も、上記のような高い国も、近年、GDPが伸びていないのです。
もし、本当にICT資本が、経済を拡大させないのだとすれば、日本企業はもっとも合理的な投資をしてきたといえます。
なにが正しいのでしょうか。
謎がいっそう深まりました。
次回から、それを解いていきますとまではいえないので、解きほぐしていきます。