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総合システム論 第26回 西洋対東洋

 2項対立的発想の最たるものは、西洋人と東洋人の意識は異なるというものです。同じ人間なのに、思考方法や人間関係に対する理解がかなり異なるという見解です。

 西洋人も東洋人も何十億人もいて、このグローバル社会のなか、そう異なるものではなく、むしろ個性(個人)の差異の方が大きいのではないかと思われます。

 とはいうものの、相当異なっているという見解も昔からあり、一理ありそうな気もします。

 そこで、R.E.ニスベット著・村本由紀子訳『木を見る西洋人森を見る東洋人』(2004、ダイヤモンド社)の記述をもとに、この東西の違いを考えてみよう。

 まず、ニスベットは、「ヨーロッパ人の思考は『対象の動きは(それが物体であれ、動物であれ、人間であれ)単純な規則によって理解可能である』との前提にたっている」といいます。そして、「ものごとをカテゴリーに分類することに強い関心もっている」と考えます。まさに、近代合理人の典型のような認識・理解を示します。西洋人との比較の中で、「アジア人は対象を広い文脈のなかで捉える」といいます。そして「常に複雑に絡み合った多くの要因に思いを馳せる」といいます。ここで、本書のタイトルが「木を見る西洋人 森を見る東洋人」となります(ただし、原題は”THE GEOGRAPHY OF THOUGHT”です)。

 これをきわめて単純化していえば、西洋人は、個人主義で、東洋人は集団主義(関係主義)であるといえるかもしれません。

 このことは、次の議論でも補強されます。ニスベットは、エドワード・H・ホールの「高コンテキスト社会」と「低コンテキスト社会」の考え方を容認します。西洋人社会は、低コンテキスト社会だとみ、東洋人社会は高コンテキスト社会とみます。コンテキストとは、文脈という意味で、社会の文化や意識や関係性がそれぞれの人々にどの程度の影響をもたらすのかに関して、高コンテキスト社会は、その共通理解や暗黙の了解性が高い社会のことです。日本語に、「言わずもがな」という言葉があり、「以心伝心」とでもいえるものです。言葉に出して言わなくても、日本人同士ならば、おのずと意思や意味が伝わるとみています。この社会では、言葉は、それが通じない時しか意味を持たないことになります。また、そうでない人々は、同じ社会(集団)のなかで生活することが不利に働くともいえます。これに対して、低コンテキスト社会では、人々の間の共通理解が低く、または規範性が低いので、自己主張が必要となり、言葉による意志の伝達がより重要となります。

 これは、「私」という存在の表現にも、大きな影響を与えるといいます。英語では、私の表現はIですが、日本語では、「私」といいます。しかし、その他にも、「僕」や「俺」やネットの言葉では、「ワイ」などが使われます。それは、使われる文脈や人間関係のなかで使い分けられます。しかも、話し言葉や文章ですら、「私は」という主語を使うことは稀なことです。いわなくてもいいことは、省略されるのです。あえて、「私は」という場合は、そこになにかの強い意味があるとみなされるのです。

 ここで、東洋人とくに日本人が、集団主義的で、関係論的に人間をみて、自分の判断は、周囲の人々の顔いろを見て行う傾向が強いということは、かなり前から言われていることです。この意味では、この著書は、標準的な東洋人(日本人)の理解を示しているといえます。

 これをそれなりに容認したとして、今後の日本人の集団性やコンテキスト性はどうなっていくのでしょうか。

 いま、日本人の若者層と中高年層では、社会意識や個人意識に相当格差があるといわれています。もし、そうであれば、これまでの組織間コミュニケーションのあり方も変えていく必要があります。中高年者が、経営者であり、幹部社員である可能性が高いのですが、彼らと若年労働者層のコミュニケーションギャップが企業の生産性の低下につながっている可能性もあります。この場合、グローバルスタンダードとして西洋人的な価値観やコミュニケーション手法をより取り入れるべきという考え方が主流かもしれません。となれば、変えるべきは、中高年層のほうかもしれません。もっといえば、トップから変わるということかもしれません。最近のSNSを中心としたコミュニケーションツールの普及と利用者の多さは、若年層の方が優位に立っているといえます。ただし、企業の生産性向上にどれほど寄与しているのかはまだ十分にわかっていませんが。

 かつてから(古代エジプトから)、「いまの若者は」という批判と、いまの若者からの「働かないオジサン」という批判も、このコミュニケーションギャップに起因している面もありそうです。

 明治維新以後、150年近く、日本人は、もっとも広くいうと「和魂洋才」でやってきており、それなりに豊かな経済社会を構築してきたともいえるとともに、それを大きく転換しなければならない時期にきているようにも思われます。

 そこで、次回は、「脱構築」という言葉を旗印に掲げたポスト構造主義の考えを述べてみたいと思います。

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