総合システム論 第28回 パノプティコン
今回は、第25回の「メタ視点」を人間社会の構造的装置として考えたものです。ひとことでいうと、「まなざし」です。人が、何かの意図や目的で、視線を定めることです。
ところで、皆さんは、功利主義の提唱者である、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham, 1748-1832)を覚えておられるでしょうか。高校の社会科のなかに出てくる哲学者の名前です。
経済学者でもあり、「最大多数の最大幸福(The greatest happiness of the greatest number)」という基準は、聞かれたことがあるでしょう。
功利主義者であるベンサムは、「パノプティコン(Panopticon)」という装置を構想しました。日本語では、一望監視装置とでもいえるものです。もっとも、効率的に、すなわち、最小の費用で監獄を維持するための方策を考えたのです。
円形に牢獄を配置して、その上から、監獄官(刑務官)が、囚人(受刑者)を監視します。監獄官からは囚人は見えますが、囚人からは監獄官(監視人)はみえないような仕組みとなっています。
その装置を権力の本質とみたのが、前回出てきたミシェル・フーコーです。フーコーは、権力者からは、非権力者(民衆)は、監視されているのだが、民衆からは権力者は見えないということが、民衆の権力への隷従を生み出すと考えたのです。反権力的な行動に出た場合に、民衆は監視されているので、すぐに、摘発・弾圧されます。民衆からは、権力者の活動は分からないという、視線の不均衡性が、権力への服従を「内面化」させるとみるのです。実際には、そのような監視がなくても、ある可能性があると民衆が思えば、権力者に逆らわなくなるとみるのです。フーコーは、それを学校や病院や工場などもそうだというのです。
ひとことでいえば、体制維持の仕掛けであるとみるのです。
これは、情報経済論的に解釈することも可能です。
経営者(プリンシパル)が、従業員(エージェント)の仕事を監視することを、モニタリングといいます。実際にモニタリングができれば、従業員は、さぼることができないでしょう。または、努力水準をある程度は維持するでしょう。しかし、モニタリングには、コストがかかります。つねに、監視するためには、経営者はそれしかできなくなります。そこで、監視をしているというようなシステムを導入します。また、中間管理者という監視者を雇いますが、これもコストがかかるのです。そこで、企業経営ではインセンティブ設計をおこないます。がんばって成果を挙げたら、報酬を増やすとか、地位を上げるとか、フリンジベネフィット(給与以外のなんらかの便益)を与えるとかです。従業員の稼ぎ出す価値が、インセンティブ(コスト)より上回れば、そのほうが合理的であるといえるのです。ただし、皆で売り上げを出しているときに、個々人がどれだけの寄与度なのかが分からないことが大半です(歩合制のセールスマンは除く)。
そこで、経済社会としては、なるべく従順な労働者であってほしいので、教育や訓練などを通じて、労働者が自発的に命令を受け入れるような意識構造を作り上げようとするのです。
そこで、企業は、よく教育されていて、まじめで素直で企業のいうことをよくきいてくれそうな学生を採用しようとします。
ところが、学生側も、そのような企業側の意図を見破っていますので、エントリーシートや就職面接のときに、まじめで熱心に働くようなシグナル(態度や情報)を企業に送ります。
いまの体制(経営システム)のままでは、企業の生産性が伸びないことは、企業側では分かっています。本音としても、自律性が高く、創造的で革新的な労働者が欲しいのですが、企業としては、そのような労働者へのマネジメントはできないと思っているのではないでしょうか。たしかに、個性が強くて勝手なことをする人をマネジメントすることは困難がつきまといます。
結果、日本型組織編成やマネジメント手法を変えられず、OECD主要先進国の中で、生産性が最低の状況になっているといえるでしょう。
体制や構造を変えるコストとメリットと、変えないことによる長期低迷または危険性を真剣に考える時期にきているといえます。
今回のテーマに、さらに付け加えると、まなざしは、上述の監視をするという場合と、相手を温かく見守るという場合もあります。愛情深く、信頼感のともなったまなざしは、監視以上のパフォーマンスを生み出すことも多いでしょう。
行動経済学がいう「他者性」は、それを示しています。