第31回 コンテンツと公共財性
「公共財(pubic goods)」の供給も、市場の失敗の一例です。
ミクロ経済学が、基本的に扱う財は、市場で取引される「私的財(private goods)」ですが、インターネット内のコンテンツはどうなのかは様々な状況や理由によって、その財性は異なります。今回は、インターネット内のコンテンツの公共財性を考えます。
まず、人類の大原則として、言葉や知識や知恵や理論は、人類自体が永い人類史のなかで獲得してきたものです。すべての人も、その先達から言葉や知識を教わりました。その一方で、新しい知識や著作物を創作した方の努力を認めなければなりません。そこで、近代国家は、知的財産権制度を確立しました。ただし、表現される媒体やシステムは、日々、進化しているので、どのように知的財産を守るべきかは非常に困難な経済社会の課題となっています。結果、著作権法は非常に難解な内容となっています。ここでは、インターネットのなかのコンテンツに絞って議論をします。
まず、インターネット自体は、誰のものでもありません。誰かが著作権をもっていたり、管理しているわけではありません。この意味では、インターネットは、純粋公共財といえるでしょう。
ところが、インターネット上のコンテンツはいろいろな財性を示します。その一例を示しているのが、上記の図表です。
まず、純粋公共財として、「コピーレフト(copy left)」という考えや運動があります。リチャード・ストールマンが唱導しているものですが、著作権は残したままで、二次利用や改変を認めようとするものです。また、「クリエイティブ・コモンズ(Creative Commons)」という考え方もあります。これは、ローレンス・レッシグが唱えたものですが、著作権者みずからが、再利用を許可する方式です。
著作権は非常に難解な権利なので、簡単に述べることは差し控えるべきですが、ミクロ経済学における財性を知るという意味で述べてみます。
先も述べたように、著作権は知的財産権のひとつであり、創作活動をした人々の努力を評価し、創作者に一定の権利を認めようという仕組みです。そうでなければ、せっかくの努力が報われないことになり、ひいては、努力して創作する人が減るからです。畢竟、人類や社会全体の効用が損なわれるとみるからです。その一方で、著作者が死亡し、一定の期間を超えると、権利はなくなり、人類共通のものとなります。すなわち、ここでいう純粋公共財となるのです。
これを前提として、著作者が権利を放棄したり、一定の許諾を与えれば、上記のように、利用可能となります。いまの基本制度を維持する場合は、やはり、著作権者の意思にまかせるのがよいと考えます。もちろん、最初から完全にフリーソフト(コンテンツ)としている場合は、純粋公共財といえるでしょう。
私的財としては、有料で利用者が限定されるものもあるでしょう。たとえば、参加資格があるような場合です。ただし、一般的には、なるべく多くの方に観てもらい、収入を大きくしようとするので、自然独占といえるでしょう。ただ、コンテンツは相異にこそ意味があるので、「独占的競争の理論」の方がふさわしいと思いますが、ここではマンキューの言葉に従っておきます。
最後に、無料ですが、利用者が限られているものとしては、著作権のあるコンテンツなどです。著作権者がだれに観てもらうかどうかを決定することができるからです。
コンテンツは、テキスト、画像、音声、音楽、動画などすべての意味のなる情報といってもいいので、その権利性は多様です。
インターネット時代における知的財産権の新しい制度を再構築する時期に来ているといえるでしょう。