第68回 ゲーム理論のはじめ
「ゲーム理論(game theory)」は、ミクロ経済学の一領域として、標準的なテキストの一章として入っています。この意味では、ゲームの理論は、ミクロ経済学の部分的補完的理論ともいえます。しかし、この30年間の飛躍的発展過程の中で、ミクロ経済学を凌駕して、むしろゲーム理論が、普遍的で包括的な理論であるという見方も台頭していました。
現時点では、ゲーム理論も、ミクロ経済学的限界と同様の限界も指摘されています。ただし、ゲーム理論は、経済学への応用だけではなく、経営学、社会学、政治学、生物学、コンピュータサイエンスなどへの応用も盛んであり、その適用範囲という面では、むしろミクロ経済学よりも広いといえます。
本コラムは、ミクロ経済学のなかで議論をしているので、ここでも、ゲーム理論はその一部として考えることとします。
数回にわたって、ゲーム理論のいくつかの主要論点を考えていきますが、ここでは、その前提ないしは全体像を概観することにします。
ゲームの理論の出発点は、ノイマン(John von Neumann)とモルゲンシュテルン(Oskar Morgenstern)の共著『ゲームの理論と経済行動(Theory of Games and Economic Behavior)』(1944年)と考えられています。もちろん、すべての理論にはその前史や嚆矢をなすものがありますが、本書が画期をなしたのは事実でしょう。
ここでは、簡略な全体像を図表でまとめていますので、それに沿って解説することとします。
まず、すべての学問は、概念定義から始まるといえますので、ゲーム理論の定義を述べます。しかし、大きな学問領域・理論を、短い言葉で定義づけることは常に限界が内在しています。また、様々な著書を調べてみても、仮説的(仮設的)な定義であるといえるものがほとんどです。ここで示しているのも、仮説的なものであるという断りの上で、書いています。
ゲームの理論とは、「依存関係にある個人や企業などの戦略的行動の分析手法」であるとしておきます。これはさらなる補足が必要です。まず、まったく関係性のない主体の行動は除外されるということです。完全競争市場などの市場状況には適用しないということです。つぎに、依存関係という場合、その主体は多数(無数)というよりは、少数またはある程度特定されているという前提がつきます。個人や企業ということから、経済領域に限るということを意味しています。ですから、それ以外の学問への応用としてのゲーム理論は、ここでは排除するということです。戦略的行動は、相手(敵か味方かは別にして)が想定され、相手の行動を考慮しながら、自己の利得を図るということを意味しています。そのような主体と状況下のなかでの意思決定や行動の分析のための手法が、ゲーム理論であると考えています。
いまの定義をより補完するために、ゲーム理論の構成要素を掲げています。
第一は、「プレイヤー(player)」の存在です。ミクロ経済学では、経済主体でいいのですが、ゲームといっているので、プレイヤーという言葉をあえて使用しています。第二は、「戦略(strategy)」または、「戦略的状況(strategic situation)」の存在です。いいかえると、プレイヤーは、問題状況ごとに選択するオプションがあるということです。第三は、「利得(payoff)」です。経済学の用語でいう効用や利潤と同じです。
主要概念は、今後議論していくので、すべてここでは書きませんが、もっとも重要な概念は、「ナッシュ均衡(Nash equilibrium)」です。これは、ゲームの目標といえるようなもののひとつです。標準的な古典派経済学では、「パレート最適(Pareto optimum)」が目標のひとつでした。これも均衡概念ですが、ナッシュ均衡もそのひとつです。
ゲームの様式はいろいろとありますが、ここでは、3つの要因から分類しています。第一は、「協力性(cooperativity)」です。プレイヤーが、協力するゲームなのか、非協力的なゲームかで区分します。第二は、「時間性(temporality)」です。プレイヤーの意思決定が同時に行われるのか、時間差があるなかで、順次意思決定するゲームなのかです。前者は、「静学ゲーム(statics game)」といい、後者は、「動学ゲーム(dynamic game)」といいます。第三は、「確率性(probability)」です。確率概念を採用しているかどうかで区分します。確率概念を用いないものを、「純粋戦略(pure strategy)」といい、採用するものを「混合戦略(mixed strategy)」といいます。
最後に、このゲーム理論の課題を簡潔に述べてみたいと思います。
まずは、定義や要件への課題です。すでに述べたように、なんらかの依存関係にあるプレイヤーの問題を解こうとしているので、依存関係がない場合は、解けないことになります。または適用する意味がないということです。つぎに、依存関係といっても、その依存性も無限通りの種類や程度があるでしょう。また、プレイヤーが、増えていくとその依存関係をきちんと記述できるのかという問題がでてきます。リアルな「社会―経済―人間」関係の複雑度は、ほとんど把握不能といえるでしょう。かつて一世を風靡した「複雑系経済(complexity economics)」が対象とした課題が解けるかはかなり疑問です。さらに、プレイヤーの数にも関係していますが、戦略的に意味のあるプレイヤーとはだれであるかを特定することすら容易ではありません。さらには、利得をどう考えるかです。ゲーム理論の初歩(このコラムもこのレベルですが)では、利得表を利用することが多いのですが、利得表は確からしいのかということです。たとえば、二者で争っている場合、ミクロ経済学の言葉では、複占ですが、なんらかの利得表があるとします。しかし、二者が争っているなか、市場自体が急速に衰退・瓦解することもないとはいえません。二者間の戦略的行動は利得表内の行動であったとしても、現実には、それ自体が変容すると、結果、意味をなさないともいえます。しかし、それは現実であって、理論上の問題ではないということはできます。しかし、現実の課題の有用性はやはり必要なのではないでしょうか。古典的なミクロ経済学が、論理的で非現実的であるという批判のなか、現実への有用性を目指してゲーム理論がでてきたともいえるのですが、その有用性は同じレベルではないかといえます。見方によっては、ゲームの理論の方が、理論的制約や前提が厳しいともいえます。もちろん、非協力ゲームだけではなく、人々が協力していくゲームという視点は新しいものですし、新しい成果も生まれていますが、協力概念もかなり多義的かつ不確定的ともいえます。さらに、時間軸の推移をいれて、動学的に把握するとともに、確率論を導入して、不確実性を取り込んでいることも大きな成果ですが、これにも大きな課題が内在しています。この面では、情報経済論がミクロ経済学のなかに組み込まれて、「情報の不十分性」下の課題を、ある程度解決していますが限界もあります。たとえば、「期待効用論(expected utility theory)」の場合でも、その要因自体の不確定性はつねに存在するからです。
もともと、ゲームの理論は、「数理論」または「数理経済論(mathematical economics)」として生まれたということは、数式の変数とその関係性を記述することです。しかし、現実の社会経済の複雑性を完全に規定し、シミュレーションすることはできないといえます。
このようにみていくと、ミクロ経済学の限界もゲーム理論の限界も、同様な理由に基づくことが分かります。すなわち、理論はそもそも現実の多様な現象・事象・行動とは異なるということであり、社会経済現象はそもそも物理現象ではないということです。
結局、どの理論でも、社会科学の課題や問題を、不完全にしか解けないということです。
では、ミクロ経済学もゲーム理論も、無用であるのかといえば、それは違うといわざるを得ないでしょう。不十分でも、ないよりはましなのではないでしょうか。250年におよぶ経済学の発展は、それなりに社会経済の維持・管理に貢献しているといえるでしょう。もっといえば、それに代わる見方や考え方がないのです。
ミクロ経済学は、市場における「価格理論(price theory)」と、情報経済論が扱う「契約理論(contract theory)」と、この相互依存関係下での「ゲーム理論」を取り込みながら、さらにその理論性と体系性を高度化させつつあるといえるでしょう。